メキシコシティで暮らすmangoの超・私的通信


by mangorico3
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メキシコで杜子春を”聴く”

最近、インターネットを通じて物語を『聴いて』います。
『不朽の名作文学を日本を代表する俳優・女優が朗読する』といううたい文句がついていて、日本の活字に飢えている私にはぴったりでした。
たまたま、最新のものが芥川龍之介の『杜子春』でした。
恥ずかしながら『杜子春』は読むのも『聴く』のも初めてでした。
ストーリーをご存知の方、今さらですが少しお付き合い下さい。

物語は、ある春の日の夕暮れ、杜子春という若者が洛陽(中国)の西の門の下でぼんやりとしているところから始まります。
彼はもともとお金持ちの息子でしたが、財産を使い尽くして、今では家も仕事も金もない哀れな身分でした。
食べ物を恵んでくれる人も、宿を貸してくれる人もない乞食です。
彼は、こんな思いをして生きているくらいなら、いっそ川に身を投げて死んでしまったほうがましだ、と投げやりになっていました。
そんな杜子春の前に、一人の老人が現れます。
そして、黄金のありかを教えてくれるのです。
そうして杜子春は、洛陽一の大金持ちになりました。
ひとたび大金持ちになると、彼はありとあらゆる贅沢を尽くします。
今まで見向きもしてくれなかった友人たちも家に押しかけ、都中の美人が集まり、毎日毎日宴会を開きます。
しかし、そんなことをしていると3年ばかりで金を使い切ってしまい、あっという間に元のような貧乏にもどってしまいました。
そうすると、毎日遊びに来ていた友人たちもよりつかなくなり、あいさつするものもなく、宿を貸すどころか一杯の水すらも恵んでくれる人がいなくなりました。
一文無しの杜子春はまた途方にくれて、洛陽の西の門の下でぼんやりとしていました。
するとまた、あの老人が現れて黄金のありかを教えてくれます。
杜子春は喜んで、以前と同じく贅沢の限りを尽くし、そしてまた一文無しに戻りました。
三度、途方にくれて西の門の下でぼんやりとしているところへ、老人が現れます。
そして、黄金のありかを教えてくれようとするのですが、今度は杜子春はこう言います。
「いや、お金はもういらないのです。」
「金はもういらない?では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったとみえるな」
「なに、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想が尽きたのです」
「こりゃあ面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ」
「人間はみな薄情です。私が大金持ちになった時には世辞も追従もしますけれど、いったん貧乏になってごらんなさい、優しい顔さえもしてみせはしません。そんなことを考えると、例えもう一度大金持ちになったところが、なんにもならないような気がするのです。」
そして、杜子春は老人に向かって、弟子にしてほしいと頼みます。

老人は、鉄冠子(てっかんし)という名の仙人でした。
仙人になるための修行として、鉄冠子は「何が起こっても、一言も声を発するな」と言いつけます。
峨眉山(がびさん)という山に移動した杜子春のもとを、代わる代わる魔物が訪れて何とか声を出させようとします。
ついには地獄に連れて行かれて、ありとあらゆる拷問を受けるのですが、声を発するなという鉄冠子の言葉を守ってじっと耐えます。
しかし、やせこけた馬の姿に変えられた両親が連れてこられ、ひどい拷問を受けても杜子春をかばい続ける姿を見てついに、「おっかさん」と声を上げてしまいます。
その自分の声にハッとすると、そこは洛陽の西の門の下、夕日を背にした老人と向かいあっていました。。
何もかもが、峨眉山に出発する前と同じでした。
「弟子になったところで、とても仙人にはなれないな。」
という老人に杜子春は、
「でも、なれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです。いくら仙人になれたところで、目の前でムチを受ける両親を見て黙っているわけにはいきません。」
と答えます。
老人は言います。
「お前はもう仙人になりたいとう望みも持っていまい。大金持ちになることはもとより愛想が尽きたはずだ。ではお前はこれからあと、何になったらいいと思うんだ」
「何になっても、人間らしい正直な暮らしをするつもりです」
杜子春の声には、今までにない晴れ晴れとした調子がこもっていました。
「その言葉を忘れるなよ」
と言い残して、老人は去っていくのです。


「人間は薄情なものだ(人間=薄情)」という言葉と「人間らしい正直な暮らし(人間らしい=正直)」という言葉は矛盾しているのですが、その両方を持っているのが人間というものではないでしょうか。
私も人間のひとりで、薄情で残酷な一面を持っていると思うのです。
メキシコのあちらこちらにいる物乞いをする人びと、ぼろをまとってベンチに寝転がる人びと、信号待ちの車の前で芸をしてお金をねだる子どもたち。
そんな人たちと関わりたくないと思う私は、薄情ではないのかと考えることがあります。
メキシコに長く住んでいるとそんな光景にも慣れ、上手に無視できるようになるのです。
しかし単純にお金をあげればいいという問題でもなく、偽善と優しさの間で揺れ動きます。
日本にいれば考えることのない問いが、メキシコにはあります。
「人間は薄情なものだ」という言葉は、自分の中に薄情で残酷な部分があることを忘れてはいけないという戒めのように思います。
そう意識することで、いくぶんか謙虚になれる気がするのです。

そして、「お前は、何になったらいいと思うんだ」という問いかけは、今まで幾度となく繰り返してきたものでした。
進むべき学校を選ぶ時、仕事を選ぶ時、メキシコに行こうと決めた時、「私は何がしたいんだろう」と考えてきました。
その度に、「私は何者かにならなければいけない。何かを成し遂げなければいけない。」というプレッシャーを感じてきたのです。
「プロ野球選手になりたい」「コックさんになる」というような明確な目的を持っている人以外には、「何になるんだ」という問いはとても苦しいものです。
そんな中、杜子春の「何になっても、人間らしい正直な暮らしをするつもりです」という答えは清々しいものでした。
何になるかが問題ではなく、どんなふうに生きるかが大切なんだということを、私に教えてくれました。
そういえば、高校生の頃、私は「良い大人になろう」と決めたのです。
それは、「子どもだからってバカにせずをきちんと話を聞いてあげる大人、子どもたちに愛される学校の先生のような大人」という、ちょっと子ども(=自分)に都合のいいような考えだったのですが、大人の年齢になった今、やっぱりそんなふうになりたいなあと思います。
人生の目的が、「よりよい自分になる」でもいいですよね。
メキシコに来て、ただ日々を積み重ねるだけでも、家族(ホームステイ先の)がいて友達がいて恋人がいて、仕事があって、それがすごく幸せだと感じます。
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by mangorico3 | 2007-02-17 16:47 | つれづれなるままに